
木谷實(1909年~1975年)日本棋院東京本院 九段
生涯を通じて何度も棋風を変えたことで有名。低段時代は戦闘的なスタイルだったが、5段時代(1933年頃)から1936年にかけて呉清源と共に「新布石」と呼ばれる革新的な序盤理論を発表し、中央を重視する碁に変化していった。
この頃からは実利重視、療養から復帰した1956年以降は先に地を稼いで相手に大模様を張らせて突入する戦法を多く採るようになり「木谷流のドカン」と呼ばれるなど、時代と共に変化した。 以下、「木谷實 人物」より引用。
『若くして天才と呼ばれ、1924年に日本棋院が設立されるとすぐに参加している。そこで中国から来た呉清源と出会い、後に彼は友人でありかつ最大の好敵手となる。
この頃、海山太郎が経営する大相撲の二所ノ関部屋に居候して日本棋院へ通っていた。大食漢であり、あるときには朝五杯、昼六杯、夜七杯と、どんぶりめしを食いあげたといわれる。1923年(大正12年)の関東大震災には鈴木為次郎の神田の下宿で遭遇し、昼食にかかろうとする時で木谷はおはちを抱えて外に飛び出した(鈴木為次郎談)。病気で医師や家族が休場をすすめても、なかなか聞き入れず、「偉大なる駄々ッ子」の異名があった。
20世紀の棋士の中でも指折りの存在とされており呉清源と共に大正時代から活躍。木谷の棋風は生涯何度も変化している。低段時代は戦闘的な棋風で「怪童丸」の異名をとったが、五段時代に新布石を発表して位の高い碁に変化した 彼らは1939年から「世紀の対局」とも称される「鎌倉十番碁」を打ったが、その結果は呉の勝利に終わっている。本因坊には3度挑戦して獲得は失敗するなど大タイトルには恵まれなかったため「悲劇の棋士」と呼ばれることもある。また、新布石を初めとした新機軸を多数創案した。』

『また、自宅を「木谷道場」として内弟子をとり、全国から優秀な少年を集めて育成した。「木谷道場」からは多くの大棋士が巣立ち、タイトルを争うトップ棋士から普及に専念する地方棋士まで多くの棋士を育てた。
弟子たちは1970年代初頭から1990年代半ば頃までタイトル戦線を席巻し、現在孫弟子まで含めた一門のプロ棋士は50人以上、段位の合計は500段を突破している。
ベテランとなって後、その存在の大きさから「大木谷」と呼ばれた。』
1965年紫綬褒章受章。1975年従四位勲二等瑞宝章に叙せられる。
2010年第7回日本棋院殿堂入り。
棋士育成 名伯楽の 大木谷
木谷門 百花繚乱 囲碁万段(五百段)
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