藤沢朋斎 九段

藤沢朋斎(1919年~1992年)日本棋院東京本院 九段

日本棋院大手合による昇段制度初の九段。九段即名人の名残がある時代。

呉清源と3度の十番碁を戦った。棋風は深い読みに裏付けられた力戦派で、

ダンプカー級の突進力」などと形容された。マネ碁を積極的に試みた高川格坂田栄男とともに日本棋院若手三羽烏と呼ばれた[3]

常用した戦法に白番マネ碁がある。相手の打った手に対して点対称の位置にマネをして打ち続け、相手が悪手を打った瞬間にマネをやめるというものである。1948年頃の大手合での木谷実戦で最初に試み、「創造性に欠ける」などと批判を浴びつつも信念でこの手法を使い続けた。

黒の対策はタイミングを見計らって天元に打つものと、中央に向けたシチョウを利用するものが考えられる。現在ではシチョウによるものが決定版とされており、こうした対策が進んだため藤沢のマネ碁の勝率は結局5割に満たず、決して成功していたとは言いにくい。生涯成績1114局642勝469敗3持碁(勝率5割7分8厘)。

1951年10月1日から毎日新聞主催で呉清源とのコミだしでの四番碁が行われ、4連敗する[4]。同10月20日から、読売新聞主催で呉清源との第2次十番碁が開始され、2勝7敗1持碁で先相先に打ち込まれる。

続いて1953年に呉清源と第3次十番碁を打ち、先相先で開始して6局目までで1勝5敗となり、定先に打込まれた。この敗戦の責任を取って藤沢は日本棋院を脱退した。

1954年からの橋本宇太郎との十番碁にも敗れる。

1957年に朋斎と改名。同年本因坊戦で高川秀格に挑戦したが、2勝4敗で敗れる。1959年に日本棋院に復帰。

この後も十段戦優勝など各棋戦で活躍。

1992年4月に現役引退。

左図 冨嶽三十六景 甲州三坂水面(逆さ富士)

白番で エコな碁を打つ 朋斎流

先番で 碁聖相手に 太閤碁

嫌われる 覚悟の上の マネ碁打つ

マネ碁こそ 囲碁上達の 守破離なり

※「守破離
日本において芸事の文化が発展、進化してきた創造的な過程のベースとなっている思想で、そのプロセスを「守」「破」「離」の3段階で表している。
千利休の訓をまとめた『利休道歌』
「規矩作法 守り尽くして破るとも離るるとても本を忘るな」

十八代目中村勘三郎の座右の銘
「型があるから型破り、型が無ければ形無し」