序奏

囲碁というゲーム
碁盤には縦横各19本の線が描かれ、その交点に白と黒の碁石を互いに置いていきます。
縦横の線(罫線)の交点を「目」といい、自分の色石で目を囲い、どちらがより多くの目を囲い込んだかを競うゲームです。囲い込まれた目の集合を「地」と言います。
地はどこから囲い始めてもいいのですが、より大きく囲おうとすると相手に邪魔されやすく、逆に狭く囲うのは堅実ですが、小さい地を沢山作るのでは手間がかかってしまい、相手に後れを取ってしまいます。囲碁というのは如何に効率よく多くの地を囲い込むかを競い合うゲームです。
盤上には19x19=361個の目がありますが、石を置いていくと、やがて縄張り争いが生じます。この小競り合いはやがて、相手陣地への侵入や石同士の切り合い、殺し合いとなり、全面戦争へと展開していきます。こうした戦いを如何に有利に進めていくか、それを考えるのが囲碁の醍醐味であり、面白さです。
激戦が終わり、粗方地所も確定してきたところで、細かな収拾作業に入ります。
細かい作業ですが、この作業を疎かにすると、半目(1目)差で敗れてしまうという事も珍しくありません。互いに打つところが無くなったと双方が認めたところで終局です。
囲碁は相手の構想を読み取り、先手を打って対抗策を立てる盤上の戦い、知的ゲームです。
戦いであるからには実際に手合わせしてみないと分かりません。とは言うものの端から結果が見えている場合もあるし、九分九厘勝負が決まったと思っていても、一手の打ち損じでゲームがひっくり返ることもあります。一局の中に人世に似た喜怒哀楽がある。だから囲碁は止められません。
囲碁は盤上の戦い。盤上のマス目(地)を取り合う、陣取りゲームです。囲碁の盤上の戦いを、源氏と平氏の覇権争い、栄枯盛衰に想いを馳せてみました。
源平の系譜
源氏も平氏も元々は桓武天皇の子孫であり、臣籍降下で与えられた姓です。
祖とする天皇別に「X氏流派」なる賜姓が多数あり、多岐に分別しています。
平安時代についてわかりやすく【7】源氏と平氏ってどこからきた誰? – 日本史ゆるり (nihonshi-yururi.com)



源氏の出自
源氏には祖とする天皇別に21の流派(源氏二十一流)があります。
そのため「源氏の祖」と言っても紛らわしいので、ここでは源頼朝を輩出した清和源氏河内流の源経基(?~961年)を源氏の祖としてみなすことにします。
清和源氏は清和天皇(850年~881年)から分別した氏族ですが、その後天皇の代が変わっていくにつれて、時の天皇から遠くなった清和源氏の地位は低下し、中央政界での栄達が望めず、経基のように軍事貴族に活路を見出さざるを得ませんでした。
源氏の家紋
「笹竜胆」が源氏の代表紋とも言われていますが、真偽のほどは不明です。 竜胆はその花が清楚で高貴な紫色していることから村上源氏諸家や宇多源治などが用いた家紋です。足利一門の今川家が用いたとされる「丸に二つ引両」の紋などもあります。

平氏の出自
平姓を受けた流れは、大きく分けて桓武天皇から出た桓武平氏、仁明天皇から出た仁明平氏、文徳天皇から出た文徳平氏、光孝天皇から出た光孝平氏の四流があります。
桓武天皇の孫の高望王が、宇多天皇の勅命で「平」の姓を賜り、皇族から臣籍降下(861年)しました。ここでは平清盛を輩出した桓武平氏の高望王(たかもちおう)(生没年は諸説あり、不詳)を平氏の祖と称することにします。平高望の子孫は武士として活躍しました。
平姓を受けた流れは、大きく分けて桓武天皇から出た桓武平氏、仁明天皇から出た仁明平氏、文徳天皇から出た文徳平氏、光孝天皇から出た光孝平氏の四流があります。
桓武天皇の孫の高望王が、宇多天皇の勅命で「平」の姓を賜り、皇族から臣籍降下(861年)しました。ここでは平清盛を輩出した桓武平氏の高望王(たかもちおう)(生没年は諸説あり、不詳)を平氏の祖と称することにします。平高望の子孫は武士として活躍しました。
平氏の家紋
主な家紋は4種類に分けられますが、有名なのは 揚羽蝶紋が平氏の代表紋とも言われていますが、真偽のほどは不明です。揚羽蝶は、羽をたたんで上の方へあげていること、幼虫から蛹(さなぎ)、蝶へと成長していく様が縁起の良い紋とされました。
前奏

あをによし奈良の都は咲く花の
薫ふがごとく今盛りなり
太宰少弐小野老朝臣
(だざいのせうにをののおゆのあそみ)
いにしへの奈良の都の八重桜
けふ九重に匂ひぬるかな
伊勢大輔(いせのたいふ/いせのおおすけ)
小倉百人一61番歌

始め (対局前風景)
御祈願は 武運長久 囲碁のこと
打つ前に 対戦相手の 品定め
囲碁サロン 顔見て選ぶ 碁の相手
打つ前に 御託並べて 石置かず
※ 御託(ごたく)を並べる:
自分勝手なことを、もったいぶってくどくど言う。
碁託宣 いつでも聞くが 御託止め
碁託宣 言うのは自由 御託すな
※ ご‐たくせん【御託宣】
1 「託宣」を敬っていう語。神のお告げ。ありがたい仰せ。
2 人の下した判断や命令を、冷やかしの気持ちを込めていう語。
まぁ碁でも 打とう話は それからだ
挨拶も せずに石置く 粗忽者
互先 黒持ちたがり 譲り合い
束の間の 上位者気分 白を持ち
ニギリなら 先後問題 揉めもせず
深々と 一礼をして 碁笥を取り
礼もせず すぐに碁笥取り 石を置く
初手はお茶 聡汰をまねて お~いお茶
粂寺弾正 「毛抜」 國秀画
武士の台頭 : 承平・天慶の乱

承平・天慶の乱は平安時代中期のほぼ同時期に起きた、関東での平将門の乱(939年~940年)と瀬戸内海での藤原純友の乱(939年~941年)の総称です。
豪族内の争いは以前からあったのですが、実際に国家への反乱に発展したのは、いずれも939年以降のことです。
承平・天慶の乱はただの反乱ではなく、日本の律令国家衰退と武士のおこりを象徴したものでした。
鎮圧には平将門の乱の方に平貞盛が率いる平氏の、藤原純友の乱の方に源経基が率いる源氏の力を借りたので、日本の世に源平二氏が進出するきっかけになりました。
承平・天慶の乱 草創期武士の悲哀
武家平氏の興り 初代棟梁は平高望

仁安2年5月10日条に載せられているため、同日付の「六条天皇宣旨」と解されているが、実態は後白河上皇の院宣に基づいて発給されたもの。
当時の上級国司は任地に赴かない「遥任」も少なくなかったが、上総介に任官した高望は、長男国香、次男良兼、三男良将を伴って任地に赴き(898年)上総国武射郡に屋形を造営し本拠とした。高望親子は任期が過ぎても帰京せず、国香は前常陸大掾の源護の娘を、良将は下総国相馬郡の犬養春枝の娘を妻とするなど、在地勢力との関係を深め常陸国・下総国・上総国の未墾地を開発、自らが開発者となり生産者となることによって勢力を拡大、その権利を守るべく武士団を形成してその後の高望王流桓武平氏の基盤を固めました。
武家平氏の祖である上総介の平高持や、東国に独立政権を樹立しようとして失敗した下総の平将門、将門を倒した常陸の平貞盛などが良く知られています。坂東八平氏や北条氏も同じく坂東に土着した高望王流桓武平氏の末裔でした。
平将門の乱以降、関東では貞盛流と平良文の子孫が大きな勢力をもっていました。しかし
1028年の平忠常の乱で、源頼信が忠常を降伏させたことにより、河内源氏が関東における武家の棟梁的存在となり、千葉氏・三浦氏などの平姓諸流は源氏の家人として扱われるようになりました。
貞盛の四男維均衡は伊勢に地盤を築き、その子孫は主に西国で勢力を拡大。 特に平忠盛は主に西国で受領を歴任して勢力を拡大し、その子の七代目棟梁 平清盛も同じく肥後守・安芸守を歴任し、西国に勢力を拡大しました。
平忠盛
伊勢平氏で初めて昇殿を許された人物。
北面武士・追討使として白河院政・鳥羽院政の武力的支柱の役割を果たしています。
また、諸国の受領を歴任し、日宋貿易にも従事して莫大な富を蓄え、 その武力と財力は次代に引き継がれ、後の平氏政権の礎となっています。
。
武家源氏の興り 初代棟梁は源頼信

源氏の後裔のうち、受領や在庁官人として土着し、武士団を形成したものは武家源氏と呼ばれます。特に清和源氏はその代表格であり、源平合戦など、清和源氏をして源氏と称することが多い。源経基は天慶の乱の鎮圧に功を挙げ、その子源満仲は鎮守府将軍となり、その後裔は摂津源氏、大和源氏、河内源氏に分かれました。河内国を本拠地とした河内源氏は源義家(八幡太郎義家)を輩出し、摂関家の家人として中央との関係を築き、受領にも任じられる武家貴族となりました。
平安時代後期から末期にかけての武将。河内源氏六代目棟梁。(曾祖父は三代目八幡太郎義家) 東国へ下向、在地豪族(多くは坂東平氏)を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられました。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げますが、3年後の平治の乱で藤原信頼方に与して敗北し、都を落ち延びる道中尾張国で家人に裏切られ謀殺されました。源頼朝・範頼・義経らの父。
源義朝(『平治物語絵巻』より)
本奏 序


源為朝や平清盛等有力郎党の招集に成功した後白河天皇が、崇徳上皇に勝利し、上皇を讃岐に配流することで一応戦いの決着がつきましたが、以降宮廷の対立は激化し、再度の政変と武力衝突に至ります。このような宮廷の内紛解決のために武士の力を利用したことにより、その後武家勢力の台頭を促す契機となりました。こうした中で、平清盛は後白河上皇と政治的に接近して、1167年には太政大臣に就任。
1168年に清盛は出家し政界から引退して福原の山荘へ移り、日宋貿易および瀬戸内海交易に積極的に取り組み始めました。
後白河上皇は、1169年から1177年まで毎年のように福原の山荘へ赴きました。1171年、清盛は娘の徳子(建礼門院)を高倉天皇の中宮としました。全盛期には10数名の公卿、殿上人30数名を輩出するに至りました。 1180年、高倉天皇・徳子の子安徳天皇が2歳で即位すると、清盛は天皇の母方の祖父「外祖父」となりました。
嚴島神社 大鳥居
「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」 平家物語 平時忠
「平家にあらずんば、人に非(あら)ず」
囲碁小史 序
囲碁の歴史|公益財団法人日本棋院 より抜粋

囲碁は古く四千年ぐらい前に中国で始まり、君子のたしなみとして「琴棋書画」を子どもの頃から習わせたのです。 琴は音楽、棋は囲碁、書は書道、画は絵のことです。
囲碁が日本に渡ってきたのは、いつごろかはっきりとはわかっていません。
奈良時代(710-794)に吉備真備が遣唐使として唐から持ち帰ったという話がありますが、既に636年「隋書・倭国伝」には日本人が囲碁を好むことや、701年大宝律令・僧尼令などにも囲碁のことが記されていますので、日本への伝来はそれ以前からということになります。
聖徳太子 飛鳥時代(592-710)の607年、推古天皇の時に遣隋使の派遣で、聖徳太子は「日の出るところの天子から日が沈むところの天子へ」と書いた書簡を持たせました。
その書簡を見た隋の皇帝は怒りましたが、翌年、文林郎(官職名)・裴世清(ぶんりんろう はいせいせい)を隋の使いとして日本に送っています。
裴世清(はいせいせい)が、608年日本に来ていろいろなことを調べ体験したことを記録したのが「隋書・倭国伝」です。 「倭人(日本人)は仏法を敬い、(-中略-)、囲碁、すごろく、バクチの戯を好む」と記されています。
日本で最初に「碁」の文字が用いられたとされる「古事記」(8世紀初め)や「風土記」「懐風藻」には碁に関する記事が記されています。
平安時代(794-1192)の文学として有名な紀貫之らがまとめた「古今和歌集」、紫式部の「源氏物語」、清少納言の随筆「枕草子」などにも囲碁が登場します。 これらの文献・文学作品の様子から、当時宮廷を中心にした貴族社会で囲碁を非常に好んだことがわかります。

鎌倉時代(1192-1333)・室町時代(1338-1573)は、公家文化から武家文化へ、さらに仏教などあわさった文化が地方へ広まっていった時代です。
宮廷、貴族に広まった囲碁は、武士、僧侶などの知識階級へ、またしだいに農業、商業の人々の間にも広まっていきます。
安土桃山時代(1573-1603)から江戸時代(1603-1867)は、大名、大商人が中心として活躍した時代です。
日蓮宗僧侶の日海(後の本因坊算砂(1559-1623))は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三代にわたり囲碁をもって仕えました。 1603年、徳川家康が征夷大将軍となったとき、日海がお祝いに参上して、家康と五子で対局をしています。後に家康の指示で日海は寂光寺を弟の日栄に譲り、隠居して「本因坊算砂」と名のり「名人碁所」に任ぜられました。
1612年、幕府は本因坊算砂らに俸禄を与え、プロの棋士が誕生しました。
そして、1626年には御城碁がはじまります。それ以来、囲碁は日本の国技として発展していくことになります。
本因坊算砂 ( 京都・寂光寺蔵 )
1800年代に入ると、囲碁界は黄金期を迎えます。
江戸時代(1603-1867)の後期には商業経済の発達によって新しい町人階級から豪商が生まれ、農業でも豪農がでてきます。豪商・豪農はしばしば中央の碁打ちを招待したり、地方在住の碁打ちを優遇しました。そのため碁打ちはよく、全国を旅回りしました。文化文政時代には十一世本因坊元丈、八世安井仙知、十二世本因坊丈和、十一世井上因碩、十一世林元美等が、また天保・弘化・嘉永時代には、本因坊秀和、本因坊秀策があり、その他天保四傑と呼ばれる伊藤松和、安井算知、太田雄蔵、坂口仙得らがとりまき、まさに黄金時代となります。
序盤 (戦い)

落ち着いて 対局するは 九手まで
対局前 肩を怒らせ 尻窄み
亀の甲 シッポも付ける 年の功
天下五段 田舎五段に 半目差
心理戦 気持ち読むより 盤を読め
憎まれっ子 たまたま勝って 威張るやつ
鼻高々 おごる平氏は鼻を折り
慢心の 権化平氏は 天狗面
平家衆 傍目呟き 気を許し
打ちたけりゃ 平手で来いと 上目線
封じ手は わが師に託せし 山桜
碁に懸けて 囲碁の師匠と 別れの碁