
碁の音に壁の落ちけり五月雨
季語:五月雨 1891年頃/明治24年頃
この句は、次の「碁丁々荒壁落つる五月雨」に比べると、囲碁の激しさのため壁が崩れたというよりか、長雨続きで壁が湿り自壊したような印象を受ける。

碁丁々荒壁落つる五月雨
季語:五月雨 1891年/明治24年
「丁々」とは、「木材や金属がぶつかり合って甲高い音を出すこと」。今は将に戦いの最中。石を盤に叩き付け打ち合うさま、気迫のこもった石音は、外の強雨と相まって荒壁さえ崩してしまいかねない迫力がある。
荒壁とは下地を塗っただけで仕上げをしていない壁のことで、つなぎに藁などを入れた土を塗っただけの壁のこと。 仕上げ塗りの 下地 (下塗り)のことをいいます。

蚊のむれて碁打二人を喰ひけり
季語: 蚊 1893年/明治26年
縁台将棋ならぬ縁側での対局か。蚊取り線香は焚いているものの、碁は中盤戦の真っ只中。戦いに気を取られている二人は盤上に集中。蚊にとっては絶好の標的。思う存分熱い血を満喫したことでしょう。
秋の蚊のよろ/\と来て人を刺す
へボ碁ザル碁に 蚊も近寄らず kiku

短夜は碁盤の足に白みけり
季語: 短夜 1893年/明治26年
夏の夜、仲間たちと囲碁に興じていた。気が付いたら辺りはもう白んできた。なんとまぁ~時の立つのは早いものか。
この頃は記者時代であり、子規の人生で青年真っ盛りの時期。

涼しさや雲に碁を打つ人二人
季語: 涼しさ 1895年/明治28年
碁盤に覆いかぶさるように、暫し読み耽っている碁打ち二人。あたかも碁盤に吸い込まれそうな雰囲気。
閑さや岩にしみ入る蝉の声 芭蕉
が連想されなくもない。
芭蕉を深く敬愛していた蕪村は、芭蕉の俳諧紀行『おくのほそ道』を主題とした作品を数多く描いています。また、子規は『俳人蕪村』などを著わし、蕪村を高く評価しています。子規の奥羽旅行で芭蕉と蕪村が手談話する姿をイメージしたのも自然の成り行きであったように思われます。

日一日碁を打つ音や今年竹
季語:今年竹 1901年/明治34年
終日碁を打つ我が石音に、若竹といったら石音に合わせて、ムクムク成長していることよ。なんとまあ勢いの良いこと。

修竹千竿灯漏れて碁の音涼し
しうちくせんかんひもれてごのおとすずし
季語:涼し 1902年/明治35年
子規は、「俳人蕪村」の「句法」を研究しており、漢文調を蕪村の発句の特徴と考えていました。 そして漢詩世界を連想させる本句は「垂釣雑詠」という漢語の前書とともに、「仰臥漫録 二」に収められています。
本句は、竹林七賢図の掛軸か襖絵を見たときの情景を詠んだものか、あるいは、子規庵に集まる同志を七賢人に擬えて詠んだ句ではないでしょうか。
子規の事跡を考証すると、上記のような解釈になると思います。

もし、本句だけでの鑑賞が許されるなら、私は次のように理解したい。ただし句の読みは、
「しうちくせんかんとうもれてごのおとすずし」
と読むことにすると、
『縁側で知人と碁を囲んでいると宵の静寂の中、お囃子や祭りのさんざめきが遠く静かに流れてきた。
...秋田竿燈まつり。
26歳で奥羽旅行をしましたがその時の様子か、あるいは祭りの写真を見ての感想かと、想像することもできそうです。
あるいは後年寝たきりになった子規の走馬灯でしょうか。』
しかしながら、子規が奥羽旅行(1983年7月19日~8月20日)で秋田に入ったのは、祭りの1週間後ですから秋田竿燈まつりを実際に体験してはいないようですから、これは私の想像。