子規は短い生涯で、俳句を約二万五千句作ったそうです。そのうち『囲碁俳句』は30以上(全部で35,6句ある)との記事も見かけたことがあります。私の検索範囲ではまとまって掲載されていたのは冒頭の高野さんのページでした。30句掲載されていましたが、うち3句は重複と見做し割愛しております。
春の句

雲濡れて春の山寺碁を圍む
季語:春の山 1894年/明治27年
花の便りに誘われて山里に出かけてみたところ、生憎の雨模様。近くの寺に雨宿りを乞うた、坊さんも衆人もみんなで和気藹々碁盤を囲んで一休み...
「山寺」には麻雀卓ではなく、碁盤が良く似合う。
勿論、子規さんも碁会に加わったはず。
僧や俗や春の山寺碁を圍む
季語:春 1894年/明治27年
桜の物見遊山ならまだしも、何のための山寺詣で?囲碁仲間の囲碁合宿・囲碁道場でもなし。僧俗同席の珍しい光景に碁好きの子規さん、感じ入ったのでしょうか。

山寺や石あつて壇あつてつゝじ咲く
季語:つつじ 1894年/明治27年
山寺の庭には巨石を覆いかぶさるように躑躅(つつじ)が咲き誇っている。お堂にはこれも立派な須弥壇に釈迦三尊がおわします。その周りには瓔珞の飾りや花飾り。
平易な句にすると
山寺や石あって盤あって手談咲く kiku
(裏の意味)山寺では僧の精神修養の一環として囲碁が重んじられていた。今日ではお寺で対局風景が見られるのは、囲碁や将棋のタイトル戦、あるいは映画のロケ位なもので、今日お堂で囲碁などに興じたりするようなものなら、非難囂々になりかねません。
しかし、戦前まではお寺で碁を打つことはごく自然の振る舞いだったのです。
「石」はもちろん碁石、「壇」は須弥壇ならぬ碁盤、その盤上に描かれる涅槃図は華麗な戦いの応酬。
もちろん「つゝじ」は「地をつつく」すなわち相手の勢力圏にちょっかいを出すこと。ノゾキや打ち込み、相手陣地のアラシ、更にはサク(石を切断する)と手筋のオンパレード。子規さんはかなりの棋力あり、とみました。

斧の柄のいくたび朽ちて日永哉
季語:日永 1895年/明治28年
斧の柄朽つ → 爛柯 = 囲碁
中国の古典小説「述異記」に爛柯(らんか)の故事があり、それによると
『晉の王質が山中で仙童の囲碁を見ていたが、一局終わらないうちに、手にした斧の柄が腐ってしまい、村に帰ると、もとの人はすでに亡くなっていた』というお話です。
僅かな時間と思っているうちに、長い年月を過ごすことのたとえ。
「囲碁にふけって時のたつのに気づかないこと。転じて、遊びに夢中になって時を忘れること」
斧の柄が朽ち果てるまで対局した。一体何局打ったものやら。それでもまだ外は明るい。なんとまあ日中の日の長くなったことよ。
子規さん、今日は体調よろしきを得て、何局も囲碁を楽しんだのでしょう。心身ともに穏やかな春の一日。 囲碁を打って楽しんでいる光景が目に浮かびます。

類句 山寺に城を見下ろす霞哉
季語:霞 1896年/明治29年
この句をもっと端的に詠むと
山寺に白鷺見下ろす烏哉 kiku
こうなるともはや囲碁川柳か。

下手の碁の四隅かためる日永哉
季語:日永 1896年/明治29年
碁の格言に『四隅取られて碁を打つな』という訓えがあります。
隅は地を取るのに最も効率のよい場所であり、四隅を全部取ってしまえば実利が大きく、まずは勝ちとしたものです。しかしながら古来より『隅には魔物が棲んでいる』という言い伝えがあります。隅への打ち込みの恐怖から、初心者は得てして更に念入りに手を入れ確定地にしようと試みます。それが行き過ぎる結果、相手に大場、大場と先行されて後れを取って、大局観に負けてしまうと言う訳です。 子規先生、格下の門人相手に余裕で内心、ニヤニヤしながら碁を楽しんでいらっしゃるご様子。

しかし、何事にも例外はつきもの。
最近流行のAI出現以前には、武宮九段の宇宙流という棋風が有力な打ち方でした。宇宙流は名の如く小さな実利に拘らず、未知の世界を広く大きくかくほしてしまおうという、夢とロマンにあふれる戦法です。すなわち相手に隅の実利を取らせて、自分は中央を大きく囲って勝ってしまうという高等打ち回しで、一世を風靡しました。
最近突如御出来された『AI神』の御託宣により、『ダイレクト三々』なる教えがプロ・アマを問わず巷に広がっており、再び隅の実利が優先されるようになってきています。

この句には別の解釈も考えられます。すなわち、「下手の碁」を打っているのは誰か?という問題。
下手は子規さんの方で、四隅固めて負けてしまい、自嘲の句だとするものです。もしそうだとすると、下5「日永哉」という余裕たっぷりな切れ句で結ばず、「日暮れなり」などと詠むところではないでしょうか。

碁に負けて忍ぶ戀路や春の雨
季語:春の雨 1899年/明治32年
『春さめにぬれてひろはんいらご崎 恋路ヶ浦の恋わすれ貝』
子規さんの脳裏にはこの和歌があったように思います。
粋な月形半平太ならば「春雨じゃ、濡れて行こう」などと、決め台詞を言うところ。心優しい子規先生には
『くそっ!』、『こん畜生』などと口汚く己の不甲斐なさを咎めるようなことも出来ず、負けた悔しさを誰かに優しく慰めてほしいという願望がどこかにあったのではないでしょうか。因みに、
「恋路ヶ浜」は渥美半島の先端、愛知県田原市伊良湖町にある伊良湖岬から日出の石門までの約1kmの砂浜。その名は古く江戸時代の 1808 年(文化 5 年)には和歌に歌われているそうです。