


諸子の囲碁俳句
【諸子】 という言葉は元来、中国,春秋から戦国時代にかけて一家の説をたてた人々のことを指しますが、ここでは「 多くの人々を親しみや敬意を込めていう語」という意味で使っています。
「諸子の囲碁俳句」では
俳句が描く囲碁の風景
楽蜂写真俳句集
より抜粋させて頂きました。
子規の囲碁俳句
正岡子規
1867年10月14日(旧暦慶應3年9月17日)-
1902年(明治35年9月19日)満34歳没
子規の年齢(満年齢)は明治の年代と同じなので分かり易い。すなわち、明治元年が1歳になります。
「子規の囲碁俳句」を掲載するにあたり、『将碁の会 高野圭介』のページを参照させて頂きました。その探索・収集管理されたご苦労に感謝致します。
岡目八目 子規の碁句 相場一宏
全碁協『日本の碁』に、予備のページとして書いておいたものです。
碁柳会だより二二五番に池田さんが「子規と碁殿堂」を書いておあられますが、二、三疑問点があるので早めに発表しておきます。
まず第一に、子規は碁を知らなかったらしい。囲碁関係者は多く我田引水の嫌いがありますが、凡鳥氏もご多分に漏れなかったようです。
第二に、0.1パーセント程度が碁の句というのでは、碁好きのうちに入らないでしょう。
第三に、碁を打つ時間があり、体力があったかというと、これも否定的です。
とやこうや、子規は碁をろくに知らず、作った碁句もたいしたことがない、というのが結論。もっとも、わたしが子規を嫌いだということもありますが...
囲碁は川柳によく馴染み、佳句も少なくありませんが、俳句には不思議にフィットしないみたいです。ためしに正岡子規の囲碁関連俳句を拾ってみましょうか。
子規は約二万句を詠んだとされますが、囲碁の句は三十二句です。
碁丁々荒壁落つる五月雨 (のちに自身で抹消)
短夜は碁盤の足に白みけり
蚊のむれて碁打二人を食いにけり
僧や俗や春の山寺碁をかこむ
碁盤あり琴あり窓の竹の春
雲ぬれて春の山寺碁をかこむ
涼しさや雲に碁を打つ人二人
丁々と碁を打つ家の夜寒哉
下手な碁の四隅かためる日永哉
棊僧棊を打ち詩僧詩を吟ず月
昼人なし棋盤に桐の影動く
野狐死して尾花枯れたり石一つ
冷かや仏灯青く碁の響き
碁の音の林に響く夜寒哉
劫に負けてせめあいになる夜長哉
いろいろの變化出て来る夜長哉
月さすや碁を打つ人のうしろ迄
碁に負けて厠に行けば月夜哉
かぎになり竿になる手やわたり鳥
碁の音や芙蓉の花に灯のうつり
燒栗のはねかけて行く先手哉
淋しげに柿くふは碁を知らざらん
勝ちそうになりて栗剥く暇哉
蓮の実の飛ばずに死し石もあり
碁に負けて忍ぶ恋路や春の雨
真中に碁盤据ゑたる毛布かな
日一日碁を打つ音や今年竹
古家や狸石打つ落葉の夜
修竹千竿灯漏れて碁の音涼し
碁の音に壁の落ちけり五月雨
俳句の他に十五歳の頃、吶鯉生の号で川柳二句。
白石を持る碁打ちは黒人なり
黒石を持る碁打ちは白人なり
これというのは一、二句だけ。碁を知らないせいもあってかあまり冴えません。
囲碁を論じた文章も二、三ありますが、みな正鵠を得ているようではないのです。
碁を打なかったということは次の文章でも知られます。(死去九日前)
「病状瑣事」(明治三十二年『ホトトギス』載)
(前略)古き人の随筆読み尽して、又日を消すべき術無きに困じはてつ、ふと碁の定石を知らんと思ひなりぬ。吾いまだ碁を知らず。今はた碁を学んで人と勝敗を争ふの心も無けれど、定石を知るは幾何学の理論を読むが如き面白味あらんか、初歩の本など備り来り、 紙の碁盤、土の碁石、丁々といふ音もなく、いと淋しげに置き習ひぬ。忽ち覚え忽ち忘れ、何のことわりとも知らで、黒、白、黒、白と心も移らず遊びけるを、さと吹き入るゝ風に碁盤飛び碁石ころげて、昔の闇に帰りける、それも涼しや。
句とちがって美しい文章です。俳句や川柳、あるいは短歌などの短詩形で碁を詠むには、やはりある程度の碁の力が必要なのかもしれません。 人によっては碁そのものでなく勝負に焦点を合わせるケースもありますが、「碁の句」としてみる場合には、いくぶん味わいに乏しくなるようです。むろん詩文の力が優先するでしょうが...
子規周辺の文人の作品を二、三紹介。
碁の客を待間の菊の根分哉 内藤鳴雪
新蕎麦や碁笥なき盤も横たはる 河東碧梧桐
障子越し碁の音聞え梅の花 高浜虚子
本稿は碁柳会句集『橘中楽俳』十八号から転載させて頂きました。
筆者の相場さんは
『囲碁ライター協会名誉会長、全日本囲碁協会理事といった要職を務められた他、囲碁史の研究にも深く関わり、「囲碁史会」(2006年4月設立)の運営委員としても尽力されました。さらに、天元戦や新人王戦といった主要な囲碁棋戦の観戦記者も務められ、第一線で囲碁界を見つめ続けてこられました。
囲碁川柳同好会 「碁柳会」に所属され、爛僧の号にて創作や批評など多作を極められておられましたが、
令和四年八月二十八日にご逝去されました。
謹んで故人のご冥福をお祈りいたします。 合掌
俳句とは
定義
『五七五の三句の定型から成り,季語を含むことを約束とする日本独自の短詩型文芸。俳諧(連句)の発句(第一句目)が独立してできた。「俳諧の句」を略した語で,もとは連句の各句をもさした。』
芭蕉は俳諧連歌も多く残していますが、最初の5・7・5の発句だけで独立して鑑賞できる作品を多く残したことで、後の与謝蕪村や小林一茶らに大きな影響を与えました。
「発句」と呼ばれていた5・7・5の韻律の歌が「俳句」として定義されたのは、明治時代の正岡子規による提言からです。
明治中期,正岡子規が俳諧革新運動において,旧派の月並俳諧における「発句」に抗する意図でこの語を使用したことから,一般化し定着したものです。
正岡子規の死後の俳壇は、写実を重視し季語を詠む伝統俳句のほかに5・7・5の韻律や季語を詠まない「自由律俳句」や「無季俳句」が登場します。
現代の俳句は、古文のような古い言葉ではなく現在の話し言葉で詠む口語体の俳句が増えています。 また、国際交流を経て外国の風景を詠んだり英語などの外国語で俳句を作ったりする試みも行われていて、国際色豊かな俳句が増えているのが特徴です。
俳人とは
『俳句を作ることを「詠む」といい、俳句を詠む人を指す言葉が「俳人」です。
そして特に秀れた俳人は「俳聖」と称えられます。
一般的に「俳人」は、ある程度俳句の経験を重ねた熟練者に対して用いる表現ですが、単純に俳句を作る人という意味でも使うので、初めて俳句を詠む人を「俳人」と呼んでも問題ありません。
俳句を詠むかどうかが唯一の基準であり特に資格などは存在せず、プロとして俳句を作ったり指導したりする人も趣味として俳句をたしなむ人も全て「俳人」です。』 ― 違い比較辞典 ―
「違い比較辞典」によると、季語入り5・7・5を並べる程の自分も「俳人」とあるが、自分を「俳人」などと宣うのは気恥しい。せめて俳句子、ハイカー(haiker)が相応しいと思ったりします。
「俳人」は概ね誇り高い。「川柳」という言葉を聞いただけで『我が句が乱れる』と、露わに嫌悪感を示したり、『人のあら捜しをしては一人ニヤツイテいる』などと、蔑まれたり、煙たがられたり… 兎角川柳子は肩身が狭く、委縮してしまいます。
囲碁俳句とは
句に季節感を与える季語を含む五七五の定型(有季定型)を基礎としますが、無季や自由律などの俳句も存在し、俳人協会、現代俳句協会、日本伝統俳句協会など各団体の俳句の定義も統一されていません。
また俳句の普及・国際化に伴い、各国の言語で制作されることにより、使用言語による韻律の変化や、自然環境や季節を表す表現の差異などもあり、詩的ジャンルとして別のものと捉えるかどうかも含めて諸論あります。
俳句について論じ始めると、際限ない論争に巻き込まれるので、本稿では
その辺の経緯は-俳句―に委ねることとして、本題に戻ります。
俳句は季語を命とした短詩型文芸であり、従って季語を主体にした分類が中心です。従来では、季節を大分類項目として例えば、春・夏・秋・冬の下位項目(中分類項目)に子季(副題とも)として細分化(初春、仲春、晩春など)の分類法が一般的であります。
最近の傾向としては、大分類項目として「事象」による分類法も見かけるようになりました。例えば、その下位の項目として
時候、天文、地理、[生活・]人事、[祝日・宗教]行事、動物、植物がある。 これはコンピュータ化とデータベース化による多様な検索ニーズに対応するためのものと思います。
季語一覧 に従うならば、囲碁の季語は「人事」か「行事」の子季ということになり、従来の感覚からすると何とも味気ない気がしますが、この分類は飽くまでも検索の利便性を考慮した上での分類でしょう。俳人にとって「囲碁俳句」?なんじゃそれ! 耳障りの悪い言葉と思うかも知れません。しかし、我々碁打ちや碁キチ、囲碁ファンにとって、囲碁に関する俳句の分類は「囲碁俳句」でなければならないのです。
では、「囲碁俳句」とは何者か?という事になりますね。それは単純に言えば、俳句の中に「碁、棋、囲碁、または烏鷺などの囲碁を意味する別称」の言葉があること。または、季語の下位項目に相当する言葉として「囲碁用語」が使われていることが必須条件です。
俳句を詠むのに「季語辞典」が必携であるように、囲碁俳句では「囲碁用語辞典」は手元に用意しておきたいツールです。
しかしながら誠に残念のことに、囲碁用語は「ダメを詰める」とか「一目置く」など身近で使われているにも拘らず、「コウ(劫)」とか「シチョウ(四丁・征)」という言葉を見聞きしてもソッポを向かれてしまうことが多いです。
しかし、俳句と囲碁とは比較的相性が良いらしく、まだ認知度は低いものの
多くの俳人によって「囲碁のある風景」が詠まれているのも確かです。
「囲碁」を「将棋」とか「野球」などに置き換えては何か納まりが悪い。
将棋の有名な歌謡曲はあるが、「将棋俳句」など殆ど耳目にしたことがありません。
