囲碁俳句

子規の囲碁俳句

正岡子規  
1867年10月14日(旧暦慶應3年9月17日)-
1902年(明治35年9月19日)満34歳没
子規の年齢(満年齢)は明治の年代と同じなので分かり易い。すなわち、明治元年が1歳になります。

「子規の囲碁俳句」を掲載するにあたり、『将碁の会 高野圭介』のページを参照させて頂きました。その探索・収集管理されたご苦労に感謝致します。


俳句とは

定義

『五七五の三句の定型から成り,季語を含むことを約束とする日本独自の短詩型文芸。俳諧(連句)の発句(第一句目)が独立してできた。「俳諧の句」を略した語で,もとは連句の各句をもさした。』

芭蕉は俳諧連歌も多く残していますが、最初の5・7・5の発句だけで独立して鑑賞できる作品を多く残したことで、後の与謝蕪村や小林一茶らに大きな影響を与えました。

「発句」と呼ばれていた5・7・5の韻律の歌が「俳句」として定義されたのは、明治時代の正岡子規による提言からです。

明治中期,正岡子規が俳諧革新運動において,旧派の月並俳諧における「発句」に抗する意図でこの語を使用したことから,一般化し定着したものです。

正岡子規の死後の俳壇は、写実を重視し季語を詠む伝統俳句のほかに5・7・5の韻律や季語を詠まない「自由律俳句」や「無季俳句」が登場します。

現代の俳句は、古文のような古い言葉ではなく現在の話し言葉で詠む口語体の俳句が増えています。 また、国際交流を経て外国の風景を詠んだり英語などの外国語で俳句を作ったりする試みも行われていて、国際色豊かな俳句が増えているのが特徴です。

俳人とは

『俳句を作ることを「詠む」といい、俳句を詠む人を指す言葉が「俳人」です。

そして特に秀れた俳人は「俳聖」と称えられます。

一般的に「俳人」は、ある程度俳句の経験を重ねた熟練者に対して用いる表現ですが、単純に俳句を作る人という意味でも使うので、初めて俳句を詠む人を「俳人」と呼んでも問題ありません。

俳句を詠むかどうかが唯一の基準であり特に資格などは存在せず、プロとして俳句を作ったり指導したりする人も趣味として俳句をたしなむ人も全て「俳人」です。』                                                    ― 違い比較辞典 ―

「違い比較辞典」によると、季語入り5・7・5を並べる程の自分も「俳人」とあるが、自分を「俳人」などと宣うのは気恥しい。せめて俳句子、ハイカー(haiker)が相応しいと思ったりします。

「俳人」は概ね誇り高い。「川柳」という言葉を聞いただけで『我が句が乱れる』と、露わに嫌悪感を示したり、『人のあら捜しをしては一人ニヤツイテいる』などと、蔑まれたり、煙たがられたり… 兎角川柳子は肩身が狭く、委縮してしまいます。

囲碁俳句とは

その辺の経緯は-俳句―に委ねることとして、本題に戻ります。

時候、天文、地理、[生活・]人事、[祝日・宗教]行事、動物、植物がある。 これはコンピュータ化とデータベース化による多様な検索ニーズに対応するためのものと思います。

季語一覧 に従うならば、囲碁の季語は「人事」か「行事」の子季ということになり、従来の感覚からすると何とも味気ない気がしますが、この分類は飽くまでも検索の利便性を考慮した上での分類でしょう。俳人にとって「囲碁俳句」?なんじゃそれ! 耳障りの悪い言葉と思うかも知れません。しかし、我々碁打ちや碁キチ、囲碁ファンにとって、囲碁に関する俳句の分類は「囲碁俳句」でなければならないのです。