
眞中に碁盤すゑたる毛布かな
季語:柹 1900年/明治33年
句会も終わり、気晴らしの囲碁タイム。
以下、kikuの想像記
部屋の空きスペースは急遽、絨毯替わり・座布団代わりに毛布を広げて対局場に変身。
その真ん中にドッカと足つき碁盤が鎮座まします。おそらく碁盤は1面のみ。
今日はいつもの紙製盤や薄い板盤などではなく、歴とした自慢の五寸盤。
年末恒例行事の囲碁大会決勝戦だ。
決勝戦組合せは実力者の河東碧梧桐と句会主催の正岡子規。と、言いたいところであるが、実際はどうだったのだろう。1900年8月漱石イギリスに留学、同じこの月子規は大きな喀血をしている。このことから推測すると、喀血してからまだ数か月後の子規には碁を打てる体力はなく、ただ万年床に横になって観戦しているだけであったように思える。 毛布の上の碁盤が普段よりずっと大きく見えていたことだろう。

― 8月20日には連載が100回目に達した。子規はこのことを喜んだ。そして次のようなことを書いた。連載記事を新聞社に送る状袋の上書きを自分で書くのが面倒なので、新聞社に頼んで活字で印刷してもらった。それでも病人の身で余り多く頼むのは笑われかねないので、100枚注文した。すると新聞社は300枚送ってくれた。300枚といえば300日分、それを全部使うまでには10月の先までかかる。そこまで生きられるかどうかおぼつかなかったが、とうとう100回分まで使うことが出来た。このようにいって子規は次のように述懐を述べる。
「この百日といふ長い月日を経過した嬉しさは人にはわからんことであろう。しかしあとにはまだ二百枚の状袋がある。二百枚は二百日である。二百日は半年以上である。半年以上もすれば梅の花が咲いて来る。果たして病人の眼中に梅の花が咲くであらうか。」
病床六尺:正岡子規の絶筆 から一部引用
碁盤見て 梅の花見て 子規や逝く kiku
子規逝きて 梅まぼろしに 碁盤かな kiku
石音も 梅も仄かに 子規逝きて kiku